弟との再会

会誌「ソロモン」61号に掲載

  連合軍と日本軍が激戦を交えたブーゲンビル島での兄弟の運命的な再会。戦争体験記です。

(歩兵45連隊)桐木平 武二

(絵も筆者)

 昭和18年の末頃のことだったと思います。

 其の日丁度私はブーゲンビル島キエタ海岸の小高い山の中腹で海岸監視の歩哨の任務について居るときでした。夕暮れの海を我軍の輸送船らしい船が二隻航行しているが、見えました。私は、航行の無事を祈っているとき突然敵機が見えました。五、六機だったと思います。私はしまった見つかったか思わず体が引きしまる思いがしました。前の機が機首を下げたと見るや船におそいかかり私の目の前で爆撃が始まりました。何の抵抗も出来ない輸送船、火炎が上がったと思うとまもなく黒煙がもくもくと吹き上がるのが見えました。あまり大きくもない船、暗くなりかけた海の中に次第に沈んでいく姿、敵のなすがままの状態を見て何の手出しも出来ない私はくやしさで胸がいっぱいでした。

 そして其の夜の九時頃の事でした。任務を交代して帰っていた私の所に「田代(注・筆者の旧姓)おまえに電話だ。」との知らせがありました。ここははるか赤道をこえた南海の孤島ブーゲンビル、今まで有利に戦略を進めてきた我が軍も目の前のガダルカナル島の攻撃に失敗してからは制空制海権も敵の手中に入ってからは遙々敵の目をかすめて運んで来た輸送船も、物資を陸揚げしないうちに殆ど撃沈される有様でした。此の様な戦況の中私のような一兵士なんかに電話が来るなんて今頃誰から何の電話だろう、急ぎ駆けつけて取ってみると「もしもし、武二兄さんですか、僕、弟の正(ただし)ですが。」とのまぎれもない弟の声、これには私もびっくり次の言葉が出ませんでした。くわしい事は後で話します、出来たらぜひ会いに来て下さいとの事でした。

 思えば第二乙種であった私に召集令状が来たのは昭和15年、中国での第一線部隊四十五連隊に編入され中支方面の何度目かの作戦に参加、第二次の長沙作戦が終わった後で我部隊は命(めい)に依り上海まで下りました。その頃内地帰還の話が出ていましたがそれも夢でした。上海で船団を組み南方に向かいました。太平洋戦争に参加するとの噂を船の上で知りました。昭和17年の末頃でした。途中パラオ、トラック島に寄り18年の1月頃ブーゲンビル島に上陸しました。初めて見る南のこの島、まぶしい太陽の照る海岸に長くつづく椰子の林、それによく似合う色の黒い島の人達、とても親切でした。しかし、それもそう長くはつづきませんでした。ガ島攻撃に失敗した我軍の兵士が此の島に撤退して来ました。その後この島のタロキナに遂に敵が上陸、飛行場を造りました。それからは毎日の様に激しい空爆、しかし皆負けるものか、今に見てみろ一度はやるぞと其の日の来るのを歯を食いしばってがんばりました。しかし、其の中にも一抹の不安が迫って来る様な気がしました。

この様な悪状況の中まだ徴兵検査前の若い弟が何でこの島に。私は弟の現在いる場所を聞くと、話を聞いた友達が分けてくれた煙草、菓子等を持って夜の道を急ぎました。所は海岸近くの陸戦隊らしい粗末な兵舎でした。弟は入り口の所で待っていました。一体どうして?早速話を聞いてみました。話に依ると弟は昨年航空隊に軍属として徴用され、其の後、海軍設営隊員として務めていたが空襲が激しくなり撤退帰還の命令が出たので、ひとまずラバウルまで退るつもりで皆と船に乗り込み、航海中丁度私達の守備しているキエタ海岸の前で運悪く敵機に発見され空襲にあい、船が沈み始めたので皆海に飛び込み一生懸命泳ぎここの海岸にたどり着くことが出来たとの事で、皆、着のみ着のままの姿でふるえていた。私はまず持って来た煙草、菓子などを腹が減ったろうと言って出した。弟は戦友達と分け合い美味しそうに食べながらいろいろ話してくれた。それによると、泳ぎ着いてすぐここはどこの部隊が守備していますかと、聞いたらしい。そして、四五連隊の事を話すと、その連隊はここキエタの守備についている事を話してくれたので、もしやと思い早速電話してもらったら兄の居る事が判り、飛び上がるような思いで電話したとのことでした。何といってよいのか運命のめぐり合わせとでも言うのだろう。今日海岸監視哨に立っている私の目の前で撃沈されたのが弟達の乗った船であったとは…。祖国を離れてから片時も忘れる事のなかった親兄弟達…。今の現状ではもう此の島が最後と思い覚悟をきめていた私が弟と…こんな所で偶然に会えるなんて喜びに二人は手を取り合い話は尽きなかった。しかし、相手も疲れている様子なので又会えることを期し別れた。それから、二,三日してからの事だった。戦友達と二人で私の隊を訪ね当てたといって遊びに来た。食事はと聞くと、他隊に世話になっているので食料もわずかしか給付されないとの事でした。私は食事当番の係りの所に行き少し分けてもらって食べさした。私達も在庫が無いのでほんの少ししか持たせてやれないのが口惜しい思いでした。弟たちの話では後永くはここに居られないだろうと話していた。

それから四,五日してからの事でした。設営隊らしい隊が海岸の小道を東へ行進中との知らせを聞いたので、もしやと思った私は海岸に走り出てみると、弟達の隊と服装ですぐ判り、そこに弟がいた。私が出て来ているのに気付き、急いで私の所に来た暑い南国の日照りの中を帽子もかぶらずはだしのまま、手には水を入れる古びたヤカンをぶら下げたままの姿でした。私は一寸待っていろといって自分の仮兵舎に走り帰りました。最後の戦にと大事にとってあった地下足袋それに防暑帽を思い出したからです。私は急いで弟に地下足袋をはかせ防暑帽をかぶらせると一袋の乾パンをポケットに押し込んだ。これからどちらへと尋ねると空襲が激しくなったのでラバウル方面にも一寸退れなくなった。又○○方面の設営の仕事だろうが、しかし私は徴兵検査の年でもあるし帰国の命も来ているので、又良い船便でもあれば帰れるかもしれないといっていた。私は自分の事をこれが最後と思い弟に急いで話した。もう敵が此の島のタロキナに上陸、飛行場も建設中なので、我々はこれを撃滅するために全力を挙げての総攻撃が始まるだろう。其の時は皆玉砕の覚悟でいる。お前がもし無事帰れたら、此の事を親達に伝えてくれ。兄さんはとても生きて帰れない、お前の武運を祈っているぞ、といいながら戦地での少しばかりの写真とスケッチを弟に渡した。話している間に部隊は遠ざかっていく。私は思わず叫んだ「早く行け、遅れるぞ。」弟は隊の後を追って走った中途で何度か振り向き、手を振った。私は流れ落ちる涙で其の姿もかすんで見えた。後ろ姿に手を合わせ無事を祈った。しかし、これが最後の別れとなろうとは…。それから私達の死に物狂いの戦が始まったのは間もなくでした。空に舞うのは敵機ばかり、海に轟くのは敵の砲ばかり、食料は無し、トカゲ、ヘビ、野生の植物、私達は戦うために勝ちがためには食べられる物は何でも食べた。そして、戦った。

 しかし、物量と近代装備を誇る優勢な敵軍の前には、精鋭なる我が郷土部隊も次々と敵弾にたおれた。残った戦友も飢えと病魔に苦しみながら死んでいった。だが残った部隊は最後までこの島を守りぬいた。生きては帰らぬと覚悟をきめていた私でしたが九死に一生をえて、祖国の土を踏んだ時は夢の様でした。懐かしい故郷、私は家に入るなり弟の名を呼んだ。先に帰っている筈の弟。しかし、そこには弟の姿はなかった。弟のイハイが淋しく私を迎えていた。昭和19年戦病死の通知があった事を親達から聞かされた。

 人が人を殺し合う戦争、それはどんなにおそろしいことか。令状一枚で、お国のためと家を捨て、親兄弟妻子を残して遠い戦地で祖国の土を踏むことなく散っていった若い戦友達、改めて御冥福をお祈り申し上げます。又戦争に巻き込まれ犠牲となられた数え切れない当時の人々の霊に報ゆるためにも二度と戦争はあってはならない。それが戦争を体験した私達の願いです。

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